高尾山と天狗様
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高尾山と天狗様

高尾山について

東京中心部から西へ約50キロのところに位置し、江戸時代から信仰の霊山として、また都民、近県の行楽地として広く知られています。標高600メートルの山中には山岳信仰の飯縄大権現を奉る薬王院の諸堂が点在し自然林のなかに深遠な山容を形成しています。紅葉の山、杉の山として親しまれ、鳥や草木の種類が豊富なことで大自然の宝庫といわれています。
豊かな自然に恵まれているのは、高尾山が暖帯系の常緑広葉樹林と温帯系の落葉広葉樹林の境目にあたり植物の種類が多い事。また浄心門の近くに「殺生禁断」の碑があるように、あらゆる殺生を厳しく戒めるなど宗教的に保護され、さらに戦国時代は八王子城を最北の防衛線とする小田原北条氏、江戸時代は徳川幕府によって保護され、明治時代は御料林、戦後は国有林となり、最近では明治の森高尾国定公園に指定されるなど、時の権力者や政府によってさまざまな形で保護されてきました。山頂への手段としては、徒歩かケーブルカー、リフトがあり登山は容易で、年間の登山者は日本一に輝きました。東海自然歩道の東京側起点でもあります。
レストランや観光地の格付けで有名なフランスのミシュランが初の日本版旅行ガイドブックを発行し、山では高尾山が富士山と共に三つ星の観光地として選ばれました。「大都市近郊にもかかわらず豊かな自然に溢れている」ということが理由だそうです。山頂からは東京の素晴らしい眺めを楽しむことができ、天候に恵まれれば富士山を臨むことができます。

上空からの高尾山俯瞰

高尾山薬王院について

正式名称「高尾山薬王院有喜寺」は今から1260余年前の天平16年(744)に、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、高僧行基菩薩により開山されました。薬王院の名は創建当初、薬師如来をご本尊とした事に由来します。現在は真言宗智山派の大本山として「成田山新勝寺」「川崎大師平間寺」「高尾山薬王院」が三大本山として知られております。
南北朝時代の永和年間(1375)には京都醍醐山より俊源大徳が入山し八千枚の護摩供養秘法の後、今のご本尊「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」を奉祀し中興されました。戦国期、飯縄大権現は戦国武将の守護神として崇敬され、上杉謙信や武田信玄の兜表にも奉られ、また北条家の手厚い保護も受け江戸期に入ると徳川家(特に紀州家)との仏縁により隆盛をむかえます。
古来、高尾山は修験道のお山といわれております。修験道を修める人のことを山に臥し野に臥しながら修行することから「山伏」と呼ぶようになりました。高尾山には、今もなお「琵琶滝」と「蛇滝」の二つの滝を擁し、滝修業の道場として、一般の方にも門戸を開いております。

上空からの高尾山薬王院

高尾山と天狗様

天狗様は飯縄大権現様の眷属(随身)として、除災開運、災厄消除、招福万来など、衆生救済の利益を施す力を持ち、古来より神通力をもつとされ、多くの天狗伝説や天狗信仰があり、神格化されています。この様に高尾山は、飯縄信仰と共に天狗信仰の霊山としても知られております。
また、高尾山は修験道根本道場として知られており、山伏修行が随時行われ、昔は山伏が深山幽谷に籠もって難行苦行を重ね、やがて高尾山の霊気と融合して、呪力、験力を体得して大先達となり、山伏の姿が天狗と同一視されることも多いのであります。

大天狗と烏天狗たち

御本尊

御本尊イメージ 行基菩薩開山以来「薬師如来」を本尊として奉祀してきた高尾山は、俊源大徳の祈請によって「飯縄大権現」を勧請し、爾来これを本尊として奉安している。
「飯縄大権現」は、その信仰の起こりとしては、信州善光寺の北にそびえる飯綱山、戸隠山一帯に淵源を発する。この地方は善光寺の起こりと共に仏教の歴史も古く、戸隠、飯綱の山岳信仰も古い修験道の歴史を伝えている。
飯綱山は、戸隠山と共に我が国修験道の始祖、役(えん)の行者神変大菩薩(ぎょうじゃじんぺんだいぼさつ)によって山岳修験道場の基礎が開かれた。その後嘉祥三年(八五〇)学問行者が飯綱山から戸隠山に入り、役の行者の跡を再興して、初めて戸隠山の別当職に就き両山を治めた。やがて、戸隠山は天台派修験道の道場として栄え、鎌倉時代初期には延暦寺の末寺となり、一山八十二坊を数えた。一方、真言派の修験の寺も西光寺を中心に、道場を飯綱山方に占めて、次第に勢力を伸ばして行った。
飯綱山は、初め飯綱大明神と称し、天皇足穂命が降臨した所として崇められていたが、天福元年(一二三三)水内郡萩野城主、伊藤兵部太夫忠縄が山頂に飯縄大権現を祀り、修行の後、神通力を得て、百才以上の長寿を得たという。その子、次郎太夫盛縄もこの山に入り修行、霊験を得て妖術「飯縄法(いづなほう)」を編み出し、「千日太夫」を名乗った。以後、子孫が千日太夫を世襲して、この妖術を世に広めた。
「飯縄法」とは、管狐と呼ばれる鼠ほどの小動物を飯綱山から得て、長さ四、五寸の管に入れて養い、常に懐中して、この小動物の霊能を用いて術を行ったという。伝説では、この管狐は著しい霊能力を持ち、変幻出没自在で、予言をなし、人になつき、飼い主には非常な利益をもたらすものと信じられ、恐れられた。
殊に戦国時代の世に武将の間で、優れた妖術として熱い信仰を集め、武田信玄は、飯縄大権現の小像を懐中して、守護神としたと語られ、山形県上杉神社に遺される上杉謙信の兜の前立には、飯縄大権現の尊像が祀られているのである。
元来、飯綱山の麓、長野県上水内郡、下水内郡の辺りでは、飯綱山の残雪を「種蒔き爺(じ)っさ」と視て取って、苗代の籾播きをする慣わしが在り、農耕を司る守護神として山を崇めてきた。
こうして農耕神としてあった飯縄大権現が時代の趨勢に伴って戦神として崇められ、戦国武将の熱い信仰を寄せられた。時代が降って、徳川幕府の天下平定による平和な時代の訪れと共に、「飯縄法」の妖術は「邪教」の烙印を押され、厳しい禁制の下でその使命を終わる事となった。
高尾山もこうした時代背景の下に、戦国武将の移動に導かれるようにして「飯縄大権現奉祀の霊場」としての発展を遂げるのであるが、妖術「飯縄法」が本地仏を勝軍地蔵とするのに対して、高尾山の飯縄大権現は不動明王の変化身であるとして「飯縄不動尊」などと呼ばれた時代もあり、今日でも、不動明王に準じた供養、祈祷が勤められているのである。

薬王院の詳しい成り立ち

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