高尾山と天狗様
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高尾山と天狗様

高尾山薬王院の成り立ち -其の参-

高尾山と富士山信仰

先に北条氏康によって天文年間(一五三二~一五五四)高尾山に富士浅間(せんげん)大菩薩(だいぼさつ)が勧請された事を記した。現在、奥之院不動堂(明治中期、旧薬師堂脇の護摩堂を移築)の裏に奉安される富士浅間社がこれである。今の社殿は大正十五年に再建されたものであるが、この小社こそかつての高尾山奥之院そのものであったと伝えられる。
山内の伝承によれば、山頂を過ぎて紅葉台、一丁平に至る手前南側に「富士見台」と呼ばれる小さな頂があり、かつてここに一つの御堂が構えられ、拝殿の奥の扉が開かれると御神体の富士山が一幅の絵のように拝されたという。今日でも奥之院から山頂に向かう道筋を「富士道」と言い習わしているのである。
往時は、この道筋を白装束の富士道者の一行がチリン、チリンと腰の鈴を鳴らしながら賑やかに行き交うのが夏の風物詩であったという。
さて、「北条記」の記述に戻れば、富士浅間社の高尾山勧請に伴って富士吉田の「禰宜(ねぎ)(御師)達が悉く武州八王子に移り…」とある。俊源大徳の中興以来醍醐山三寶院の当山派(とうざんは)真言修験道の法流を汲む高尾山に、修験開祖神変大菩薩と縁の深い富士浅間大菩薩が祀られる事となったのである。ここに登場の禰宜等は、高尾山修験先達集団と渾然となって、高尾山参詣と富士詣でとを広めていった事と推察される。
江戸時代になって関東の修験道勢力は、幕府の強大な力を背景に、日光男体山を主な行場とする天台本山派(ほんざんは)の二荒山(ふたらさん)修験に収斂(しゅうれん)されて行く中で、高尾山修験道が関東地方には珍しく孤高を保ち、当山派真言修験の旗幟を護って来た要因として、隣国相模の国御岳大山、雨降山大山寺不動寺の修験行者との往来と共に、この富士山修験道の勢力を無視する事が出来ない。
江戸時代中期以後に「江戸八百講」と謳われる繁栄を示す富士講は、永禄三年(一五六〇)庚申の御縁年、修験行者長谷川武邦が富士山麓に修行の場を求め来り、人穴に籠もり千日の立行を成就して「角(かく)行(ぎょう)東覚(とうかく)」を名乗り、「おふせぎ」という守札を書き、「御身抜(おみぬき)」という創作文字を以て書いた掛け軸を信徒に与え、病気災難を払うという呪術を行とし、多くの教義を創り伝えて、正保三年(一六四六)百六才の長寿を全うするまで、人穴に住み富士登山を行い各地を行脚した。角行を開祖とする富士信仰は江戸に根を下ろし、約六十年後、享保年間(一七一六)二人の偉大な行者を生み出す。一方は「大名(村上)光晴」、もう一方は「乞食(食(じき)行(ぎょう))身(み)禄(ろく)」と呼ばれる対照的な二人であった。
村上光晴は諸大名、豪商などの裕福な檀(だん)越(のつ)を抱え、北口浅間神社の社殿が大破した際、一人の力で資金を勧化(かんげ)し、今日の諸社殿を新築する大工事を成就している。
食行身禄は一介の油の行商人である。江戸町人のただ中にあって庶民感情に通じ、若くして修行に入った身禄は、世の中を冷静に観察する眼力を養っていた。幕府の経済政策の失策から享保十八年(一七三三)一月二十六日に起こった米騒動を深く憂いて、悲しみと怒りをもって庶民救済、世直しを祈念して、享保十八年六月十三日、富士山吉田口七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)の岩穴に入って断食行を始め、七月十三日に入滅する。定(じょう)に入って一ヵ月間、食行身禄は吉田御師田辺十郎右衛門の世話を受けつつ、「お決定(けつじょう)の巻」・「御添書之巻(おそえがきのまき)」・「三十一日乃御伝」の三巻の書物を口述している。庶民の立場からの透徹した世界観を打ち立てたこれらの書物は、武家政治を厳しく批判し、四民平等の思想を謳い、中庸を得た内容で、江戸の町民を引き付けて、爆発的な富士講の隆盛発展の糧となった。
富士山道中の道筋の取り方は、江戸を中心に、埼玉、千葉、神奈川から八王子に出て高尾山に参拝、小仏峠を越えて甲斐路を辿り、大月、都留、吉田に入り北口浅間神社に詣で、登山、頂上のお鉢を巡り、須走口、御殿場口へ下り、足柄峠を越えて、最乗寺へ道了尊詣で、更に簑毛から雨降山に登り石尊権現に詣で、下って大山寺不動尊に詣で、厚木、上鶴間を経て府中、あるいは世田谷に通じる大山街道を、または、伊勢原から藤沢に道を取り東海道を登り江戸に帰るのが主だった道筋であったようだ。
この道中に於て、我が高尾山は富士山の「前立ち」、大山が「後立ち」であるとする信仰が在ったと伝えられる。高尾山浅間社から富士道を通って小仏峠に至ると、「身禄茶屋」(現小仏茶屋)と呼ばれる茶屋があり、食行身禄行者の木像と身禄が用いた笠が宝物として安置されていた。像は体長十五センチ。宝殿造りの厨子に収められ、側面には「天保辛卯(二)年(一八三一)六月二十二日 千住天王前 先達家根屋松三郎」と記される。小仏村の谷合家に移されていたが、昭和八年身禄二百年忌に、練馬区江古田の祓講(はらいこう)が譲り受け、同地小竹町の浅間神社に納められ、茶屋の幟(のぼり)と共に現存する。

寺紋アイコン

昭和四年、高尾山の本坊、客殿が焼失するまで、毎年夏の訪れと共に多くの富士道者の集団が次々と登山して、「蟻の熊野詣で」もかくやと思われる事だったと語り伝えられている。
いずれにせよ、近世高尾山の興隆発展は、富士山信仰との深い縁に導かれての事であった事は銘記して置くべきであろう。
こうした縁で、高尾山修験道の修行団体「高尾山秀峰会」は、「富士山登拝修行」を年中行事として八年目を迎える。富士吉田の食行身禄ゆかりの御師の宿を足場に北口本宮浅間神社の開山祭に参列。翌早朝、広大な裾野を一歩一歩山頂を目指す登拝(とはい)禅定(ぜんじょう)は、正しく世間の垢をすっかり洗い浄める「慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげつ)六根(ろっこん)清浄(しょじょう)」の修行である。

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