修験道とは、我が日本民族独自の精神文化に体系づけた日本国独特の宗教であり、顕密両経の妙味を自在に消化し、自ら独自の教えを形成し、その心を産み出した教えであります。
また神変大菩薩をもって、この修験道の開祖と仰ぐのでありますが、その根底にある精神と申しますか、教えとは、その当時学問的仏教が主体であるにもかかわらず、神変大菩薩は国家の政策とする律令に反し、大衆の救いとなる宗教の実践に生涯を尽くされたことであります。大衆の為に祈り、庶民の救いとなる、実践の道を選ばれた神変大菩薩の大乗菩薩道に立つその実像に、当時、官許の僧団からはみ出した私度僧たちは、宗教の真理を彼に見出し、「本有の仏性」である所の人間が、生まれながらにして本来心に宿しているその仏性をもって、庶民の為の信仰を集約し、さらには聖宝・理源大師により、真言密教の法味が加えられ、事教二相にわたりこれらを体系づけられ、「生活の中の仏教」として、多くの大先達によって完成されたものであります。
この修験道の行者を山伏といい、彼らは大自然の中に仏を見出し、自然との対話の中で、声なき声に法身説法の音声を聞き、上求菩薩、下化衆生の精神をもって、山林とそう修行を行じているのであります。この山伏が山に入り修行する際、身につける衣帯、装具を見ますと、身にまとう装束は勿論、上は頭襟から下は八目の草鞋に至るまで、ことごとく意義付けがなされ、あたかも教法を身にまとい、これを以って仏の教えを示しているのであります。
山伏独特の修験十六道具は、それぞれ不二の世界・十界・不動明王・母胎などを象徴し、これらを身にまとい修行することにより、修験者はその力をみにつけることができるのです。(下記のバナーボタンをクリック)
高尾山内に御祭りされております富士浅間社は、天文年間(四百五十年前)に北条氏康により建立され、その後、寛政10年と大正15年に再建されました。
江戸時代に於いては富士・信仰が、その隆盛を極め、江戸八百講と呼ばれる程、富士信仰が民衆の生活に浸透し、多くの人たちが富士山を目指してその歩みを進め富士道が確立されました。
高尾山内の富士浅間社は、その富士道の重要な拠点であり、富士登拝が出来ない人々はその思いを先達に託し高尾山にて富士浅間社を拝み、その御利益を頂いていたのです。
その後、時代と共に幾多の衰微を繰り返し、現代に於いては富士道を歩む人々の姿が見られなくなった現状を、当山、御貫首の発願により、北条氏康が富士浅間社を建立してから、四百五十年目に当たる平成19年6月末より7月上旬の十日間に渡り、昔ながらの富士道を徒歩による富士登拝修行の再興を成されたのです。
そしてこの富士道を徒歩による富士登拝修行は毎年、高尾山修験道により行われて行きます。
平成30年で十二度目となる徒歩練行の執行にあたり、富士登拝の代参守を授与致します。
この代参守は、高尾山御本尊飯縄大権現様から続く祈りの道を、修験者によって歩いて運ばれ、各参拝所の宝前に供え法楽と共に祈り、霊峰富士の法楽にて申込者のご芳名を読み上げ、高尾山麓・成満柴燈護摩供の御加持の後、参拝所に納められる碑伝と一緒にお授けされます。
古式に則り歩いて参拝する、富士詣『霊峰富士登拝徒歩練行』の代参守、本年一年の、諸縁吉祥・諸願円満の為に、おすすめ致します。
尚、代参守は高所運搬が伴うため、数量に限りがあることをご了承下さい。
尚、本年分は6月末日までのお申し込み分とさせていただき、7月以降のお申し込みにつきましては来年分とさせていただきますのでご了承下さいますよう、
お願い申し上げます。
平成17年は、弘法大師渡唐一千二百年・行基菩薩高尾山開山一千二百六十年・俊源大徳高尾山中興六百三十年に當り、記念事業として大天狗・小天狗像が建立され、4月21日の飯縄様御縁日に行われた両御尊像開眼法要にあわせ、平成17年4月2日より21日の二十日間、京都醍醐山から東京高尾山まで徒歩練行が執行されました。
この徒歩練行は、弘法大師(真言宗開祖)行基菩薩(高尾山開山)俊源大徳(高尾山中興)の教え、精神、気質を、身をもって行じるものでありました。
京都醍醐山・傳法学院にて、お守りされている三祖の法燈で柴燈護摩を一厳修賜り、護摩の燈火を戴き、その燈火を法の浄火として、カンテラに燈しながら高尾山まで、二十日間かけて練行をし、その尊い浄火により世界平和・験門繁栄を祈念し高尾山上にて柴燈護摩を勤修し、高尾山御本尊の御前に奉じて、常燈不消の浄火として燈されております。
永和年間に俊源大徳が京都醍醐山より高尾山へ入山、高尾山興隆を祈念し飯縄権現を感得され高尾山を中興された縁起にならうものであります。
高尾山では毎年恒例の霊峰富士登拝徒歩練行の行程にあわせ、平成22年度より相州大山登拝修行を執り行っております。 高尾山からの大山参拝の歴史は古く、江戸時代には、高尾から富士山山頂をめざし登拝修行の後、大山山頂までの登拝参拝が行われていました。大山と冨士山のご縁は深く、高尾山が富士の前立ち、大山が後ろ立ちの信仰があり、関東近辺の富士講のよりどころとなりました。江戸中期以降庶民の間に大山信仰が流行し、参拝者の増加に連れて大山道は重要な道となり、今でも関東近辺、又高尾山中にも「大山道」の石柱がみられ、大山信仰の痕跡が残っています。
大山詣りとは、はるか縄文の昔から霊山として信仰を集め、別名を「あふり(雨降り、阿夫利)やま」といい、相模湾から吹きつける海風が大山にぶつかり、雲となって雨を降らすため、こう呼ばれてきました。農民には恵みの雨をもたらし、漁民には標となる護りの山として崇められ、山頂には「大山阿夫利神社」、中腹には「雨降山大山寺」があり、大山は神仏習合の聖域であるために、江戸時代には、庶民の間で大山参拝が大流行し、成田山・高幡不動と共に関東の三大不動の一つとされ、今でも多くの方々の信仰を集めています。
大山登拝修行を通し、昨今の殺伐とした社会情勢の中、世の人々が祈るという意識を忘れかけた現代に、信仰の道を山伏装束を整える行者が歩み、祈る姿勢を示し、理屈では無い、尊い存在を信じる心を持つことの大切さを呼びかける行事であります。
修行最終日には富士山山頂までを登拝修行した高尾山修験道山伏と富士山五合目小御嶽神社で合流し、その後、北口本宮富士浅間神社にて正式参拝。高尾山麓にて柴燈護摩随喜という行程を予定しております。
平成19年に、当山貫首により「富士参拝道再興」が発願され、富士登拝徒歩練行が執行され、平成23年に第五箇度目を迎えることとなりました。この節目の年に、古来より富士信仰を通じてご縁の深い、北口本宮冨士浅間神社様と合同での行事を執り行おうといたしました所、ご承知の通り、平成23年3月11日に起こりました、東日本大震災により、被災地では、沢山の人々が犠牲となり、未だ行方不明の方々や避難所生活にて、困難な生活を余儀なくされていらっしゃる方々が大勢おいでになります。こうした国難に際し、北口本宮冨士浅間神社様と当山と合同で復興祈願の法要を執り行う運びとなりました。
平成23年7月4日に高尾山御本尊・飯縄大権現様から続く祈りの道を出発し、7月9日霊峰富士山頂にての法楽の後、北口本宮冨士浅間神社様と合同で「東日本大震災復興合同祈願祭」が執り行われ、同年9月7日には、高尾山飯縄大権現様の御宝前にて「東日本大震災復興祈願合同法要」が執り行われ、神仏融合の祈りの中、日本の復興を祈る尊いひとときとなりました。
平成17年5月24日、奈良県吉野郡にある金峯山修験本宗総本山金峯山寺の蔵王堂御宝前において修験道大集結「祈りの大護摩供」を厳修した。
修験道祈りの大護摩供とは、平成16年7月1日に「紀伊山地の霊場(吉野・大峯・熊野三山・高野山)と、参詣道(大峯奥駈道・熊野参詣道・高野山町石道)」がユネスコ本部によって世界人類共有の財産として世界文化遺産に登録されたことの記念事業として、平成16年7月から平成17年の6月まで1年間かけて日本全国の修験者が集まり、吉野金峯山寺蔵王堂御宝前において、護摩供を厳修し、地球経平穏並びに世界平和を祈念している。
当日は快晴の中、御信徒の皆様、御詠歌講の方々、総勢百名で法螺の音と御詠歌を共に宿坊である竹林院から練行し、吉野金峯山寺蔵王堂において御法楽。つづいて柴燈護摩道場において、総本山金峯山寺・五条順教管領猊下、真言宗醍醐派総本山醍醐寺・田村教学部長の御随喜を得て、当山御貫首・大山隆玄猊下大祇師の許、参拝者と共に世界平和を一心に祈念いたしました。