法相宗、法興寺(飛鳥寺)の昭道上人の弟子と言われる「行基菩薩」は、師の教えを受け華厳菩薩行を実修実証し、橋を架けたり、溜め池を築いたり、施薬院、施粥庵などを開いて窮乏疾病の人に慈悲を示し、大衆と共に生き、大衆の力を集め、多くの社会事業を興し、仏の教える慈悲の大業を実現された救済の菩薩と崇められ、1250年にも及ぶ時空を超えて、今日に至るまで篤い畏敬を集めている。
全国各地に行基開山を伝える寺は数えきれない程であるが、その多くが薬師如来を本尊としている。これは、大仏造立を始め、国分寺、国分尼寺の建立のために全国から多くの人々が徭役に集められ、重い労役に従事した中で、心の支えになったのが行基菩薩の慈悲行であったこと、「医王の目には途に触れて皆楽なり、解寶の人は礦石を寶と見る(弘法大師=般若心経秘鍵)」の喩えのように、慧眼を持った行基菩薩が人材を登用して職能集団を形成していったことが、病苦に対する施薬のように、苦役に従う大衆の救いであった。薬師の子としての出生で薬事に精通していたことなどが要因となって「行基菩薩=薬師如来の応化身」という思想が高まったという。
南北朝後期、後円融天皇の永和年間、一休禅師の登場にやや先立つ頃、京、山城の国醍醐山より俊源大徳高尾山に来たり、この地の仏法興隆を祈って、山中の滝に垢漓をとり、炊き谷に庵を結び、不動明王八千枚護摩供秘法という難行に挑み、精進の甲斐あって飯縄大権現を感得せられたのである。
高尾山薬王院に伝えられる真言密教の教えは、師資相承と言って、瓶から瓶に水を移すように(瀉瓶)師僧から弟子へ面授、伝授相承されるという方法で今日に至っている。
これが「法流」と呼ばれるのであるが、我が高尾山薬王院の法流は、中興の祖俊源大徳(永和4年=1375=10月4日寂)にまで遡る事が出来る。
俊源の師僧は山城の国醍醐山無量壽院の「俊(しゅん)盛(ぜい)」と伝えられ、師の俊盛から俊源に授けられた「清滝権現の印(いん)真(じん)許可書(こかしょ)」(清滝権現を本尊として祈請するときに用いる手印(しゅいん)=印相(いんぞう)と真言=陀羅尼(だらに)を正しく伝えた旨の証明書)が今日まで高尾山文書として遺されている。
京都市伏見区醍醐町に位置する真言宗醍醐派の総本山である。醍醐山、醍醐寺は一山の総称で、三寶院門跡を主院とする。清和天皇の貞観16年(874)弘法大師空海上人の法孫、小野流始祖「聖(しょう)寶(ぼう)理源(りげん)大師(だいし)」の開基に拠る。清和、醍醐、村上の三帝相次いでこの寺の興隆に力を注ぎ、皇族の尊信篤く、降って永久3年(1115)三寶院が建立され、康治2年(1143)鳥羽法皇詔(みことのり)してこれを御願寺(ぎょがんじ)と定められるや、これより伝法の巨匠碩徳続出し、山下に金剛王院(聖賢)・理性院(賢覚)・無量壽院〔松橋〕(元海)・山上に報恩院(成賢)・地蔵院(道教)が興り、それぞれ一派の法流を樹立し、三寶院流と併せて醍醐六流と言われる伝法の流派が成立した。こうして三寶院・理性院・報恩院・無量壽院・金剛王院の五箇院は皆門跡に列せられ、世に醍醐五門跡と称せられた。
特に足利尊氏、豊臣秀吉の尊信は篤く、尊氏は、南北朝の争いに頽廃した伽藍を六万石の食邑をもって再興に充て、秀吉は、應仁・文明の乱に荒廃した堂塔伽藍を再建造営し、聚楽第の庭石を移して林泉を構築、「醍醐の花見」と語り伝えられるように一山の美観を整え、以来明治維新に至るまで皇族公卿歴代董席して門跡となり、山上には八十余りの坊舎周備し、山下には四十九箇院がそびえ立ち、法流の本所、勅願の道場としてその盛観を持続し、寺領三千九百余石、山林四百余町、末寺四千箇寺を領有して来た。
高尾山中興の祖、俊源大徳は「不動明王八千枚護摩供」と言う秘法をもって「飯縄大権現」を感得し、その霊異をもって中興の偉業を成し遂げたと伝えられる。
この「八千枚護摩供」とは、不空三蔵訳の「立印軌」即ち「金剛手光明灌頂経最勝立印聖無動尊大威怒王念誦儀軌法品」に典拠が求められる。曰く、
「復た無比力の聖者無動心、能く一切の事業を成辦する法門を説く、菜食して念誦を作し、数、十萬遍を満ぜよ、断食すると一昼夜、方に大供養を設けて、護摩の事業を作せ。應に苦練木を以て、両の頭を酥にさして焼くべし、八千枚を限りとす。己に初行満ずることを成せば、心に願い求むる所の者、皆悉く成就することを得。発言咸く意に随い、攝召する所即ち至る。験法の成ぜんとする者は、能く樹枝を摧折し、能く飛鳥を堕落し、河水を能く竭せしめ、陂池を枯渇せしめ、能く水を逆流せしめ、能く山を移し及び動ぜしめ、諸の外道の呪術力を制止して行わざらしむ」
この行法は実に厳しい大法であり、今日に伝えられる最も簡潔な次第においても、前行として、斎食二七日間、一日三座の五段護摩、正行として、菜食一七日間には、一日三座の五段護摩、都合十萬遍の真言念誦、結願の日は断食で、一座の護摩に八千枚の乳(にゅう)木(ぼく)を焼き尽くす、という内容を課している。殊に前行については行者の機根に随うとして、一千日、一百日、七七日、五七日、三七日の間などと記され、特に室町時代後期には一千日の前行護摩供が実際に行じられていた。さらに、一日三度の入道場の折には身器を浄め、気力を養うために沐浴を欠かす事が出来ないと言うのである。
勇猛(ゆうみょう)精進(しょうじん)の師、俊源大徳が蛇滝、或は琵琶滝に斎戒沐浴し、八千枚の護摩供秘法を修したと言うのは、こうした事である。これより、高尾山においては「八千枚護摩供」がひとつの法流として伝法され、江戸時代に紀州徳川家の求めに応じて「八千枚護摩供」が勤修されていた事が、薬王院に残される「紀州家文書」によって知る事が出来る。
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