高尾山と天狗様
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高尾山と天狗様

高尾山薬王院の成り立ち -其の弐-

外護の勢力

「飯縄大権現様は不動明王の所変にして、慈悲救生の霊尊なり、諸障衆魔を祓い、所願速成を示し給い、如意満足を与え給う」と室町時代末期より戦国の時代に入り、武甲の境界近く要衝を成す高尾山は、多くの武将の信仰を集めると共に、進出の目標となった。
特に小田原の後北条氏の尊信は篤いものがあった。「北条記」(巻六)によれば、

「駿河富士山は 甲州 駿河 豆州三ヶ国の境に有 半は甲州 半は駿河 少し伊豆国に懸り 駿河大宮の浅間を表とし 甲州吉田の浅間を裏とす 諸国の参詣此の二国を第一とす 然るに此五十余年 甲州武州乱国と成 国境に関をすへ 彼山に参詣の路塞がりければ 渡世すべき様なくて 色々工夫をめくらし 武蔵国八王子に高尾山とて髙山あり 行基菩薩開山の薬師如来本尊也是へ富士山の浅間大菩薩を勧請し奉る 吉田の禰宜とも悉く武州八王子へ移り 富士浅間高尾山へとび給ふ由を披露す 奥常陸 出羽 上野下野 上総 安房より 多年関所に被支て 参詣さぜりし道者共 是を聞きて悉く参詣し 八王子高尾山忽ち繁昌す」

とある。高尾山奥之院裏の「浅間社」の濫觴(らんしょう)である。天文年間に北条氏康によって富士山信仰と高尾山が結び付けられているのである。この事は、後に江戸時代の富士講の隆盛と共に高尾山が大きな発展を遂げる要因となっている。
更に氏康は、永禄三年(一五六〇)十二月二十八日付の寄進状を残している。

「為高尾山薬師堂修理 於武州一所寄進可申候 不断勤行本意祈念可有之者也仍如件。  永禄三年十二月二十八日 氏康(花押)」

これは、山内の薬師堂の修理資金としての寺領地の寄進状である。この年五月、古河(こが)公方(くぼう)足利晴氏の没後、相続が紛糾し、長尾影虎(上杉謙信)は翌四年二月、厩橋城から小田原北条氏を攻撃するに当たり、高尾山周辺の小仏谷・椚田谷・案内谷に制札を出して、「関・越・斐諸軍勢濫妨狼藉堅く之を停止」または「甲乙人等濫妨狼藉の事、右に至り違犯輩者罪科に処すべき」と、高尾山の霊域に対して軍勢の乱暴を禁じて、戦火の及ぶ事を恐れたのである。
その後、失地を回復した北条氏康・氏照親子は、再び永禄十二年(一五六九)十月、甲斐の武田信玄の攻撃を受け、山麓に、居城に、合戦を展開(廿里(とどり)、滝山の合戦)。これを打ち破り、戦勝の御礼に元亀元年(一五七〇)三月、「唐銅製五重の塔」を寄進している。これは後に江戸時代、享保二年正月大風の災害に遭い倒壊し失われた。
氏康の二男、八王子城主北条氏照は、父の篤い信仰を受け継いで、高尾山の外護に力を尽くしている。天正三年(1575)三月二日の寄進状は、

「於椚田三千疋寄進申可被抽精誠事肝要候恐々敬白     三月二日  氏照  高尾山」

とあり、この寺領地に付いては、先の氏康の「武州一所」を高尾山領地として確定したものであり、後の江戸幕府にも引き継がれ朱印地として安堵され、明治維新に至るまでの高尾山の基盤を成したのである。
更に同年十一月二十一日付けの制札に、

「右就干被開当山本尊之御戸貴賎上下参詣之輩於彼堂場押買狼藉喧嘩口論等之横合被停止畢令違背之族任大法可処罪科状仍如件
天正三年乙亥霜月廿一日 氏照(花押)」

これは、高尾山御本尊の御開帳の折、山内の違法行為を細かく規制した制札である。また、豊臣秀吉の小田原攻撃が切迫した天正十八年二月、

「制 札
八王子御根小屋ニ候之間 自薬師山内之竹木きるニ付而ハ可為曲事旨 其時分被仰付之処ニことごとく山をきり候自今日して竹木之儀ハ不申及 下草成共かく二付而ハ 従類共にくびを可被為切 見合ニからめとり滝山へ可為引たきぎをばむさし野へ罷出 可取之旨被仰出者也 仍如件
寅(=天正十八年)二月十日(朱印)薬師山別当」

として、高尾山の山林を厳しく保護して八王子城の防備を図っているが、これは高尾山に寄せる篤い信仰と共に、後々まで高尾山の山林に対する統治者の姿勢として継承され、寺域の尊厳を育んで来たのである。

寺紋アイコン

天正十八年(一五九〇)六月二十三日堅塁を誇った八王子城が豊臣方の激しい包囲攻撃の中に落城した。これによって小田原城に篭城していた北条軍は大きな衝撃の内に十日後には開城を決意、七月五日城を出て降伏、氏照は兄氏政と共に十一日自決して果てたのである。年令五十一才であった。
同年八月一日徳川家康の関東入り、江戸城入城を迎えて、八王子城は廃城となり、八王子横山十五宿に中心を移し、小門(おかど)陣屋(じんや)に於て八王子千人同心と関東十八代官による支配が行われた。徳川氏の八王子周辺支配の基礎を固めたのは代官頭大久保長安である。

「高尾山八王子近辺に候間 誰人成共みだりに竹木切取候ハハ 前々より法度の地に候間 八王子へめしつれられべき者也」

とあり、徳川氏関東入国後の八王子周辺の支配は、八王子総奉行大久保長安によって北条氏康・氏照の政策が引き継がれる形で展開されたと言える。

寺紋アイコン

高尾山薬王院有喜寺の寺領地については、「武蔵名勝図絵」によれば、

「往昔、北条氏康より境内七十五石余寄付ありて、その後また氏照より七十五石椚田村に於て寄付、合わせ百五十石の寺領なりけるが、天正十八年(一五九〇)北条氏終に滅亡ありて、地方(じかた)七十五石は上地(あがりち)となり、その後、慶安年中(一六四八~五二)改めて御朱印を賜い、境内山林七十五石‥‥‥」

とある。代官頭伊奈熊蔵忠次・大久保十兵衛長安・彦坂小刑部元正等によって領国一帯の検地が実施され、改めて朱印状を下付して、没収した寺領を安堵している。

先の氏康の「武州一所」は、七十五貫文。氏照の「椚田三千疋」は、一疋が二十五文に当る銭の単位であるから、三千疋とは七十五貫文に当る。都合百五十貫文ということになるが、正保四年(一五四七)三月十五日八王子代官岡上甚石衛門景親の書状によれば、

「武州高尾山薬王院山林前々より持来り候、先規には山林を高拾五貫に結び、地方拾五貫、合三拾貫、北城(条)家より付置候、御入国依頼、地方は上がり、山林は今に持来り候罷成儀ニ御座候者、山林之分此度御朱印罷出候様二仰せ奉り候」

とある。その結果、

「当院領武蔵国多麻(摩)郡横山庄椚田村之内、高尾山境内七十五石事、任先規寄付之訖、全可収納併山林・竹木・諸役等免除有来、永可有相違者也 仍如件
慶安元年(一六四八)八月十七日 薬王院」

として、徳川氏の関東入国以来、約六十年を経て七十五石の朱印状が与えられたのである。この事は、逆に中世以来の高尾山の寺勢と伝統が、徳川氏の領内への介入を許さなかったと見てよいであろう。
ともあれ、七十五石の広大な朱印地は、実に高尾山薬王院が関東に屈指の名刹であった事を示している。


伽藍の造営

徳川氏の関東支配も三代家光の世になると江戸の町の経営も愈々盛んになり、庶民の暮らしにも活気が出てきた。高尾山も多くの人々の参詣を受け賑わいを見せ、寛永年間、中興第十世堯秀が薬師堂・大日堂・護摩堂・仁王門などの四堂宇を建立して境内の整備に力を尽くしている。薬師堂も大日堂も北条時代の再建であるが、薬師堂は仁王門と共に延宝五年焼失している。大日堂は間口三間、奥行三間、宝形造りの芧葺であり、現在の大師堂がこれで、護摩堂は、ほぼ同様の結構で、現在の奥之院不動堂がこれに当る。鐘楼は二間四方の芧葺きで、梵鐘は経が三尺、高さが五尺で、鐘銘には、

「…寛永八年襲集未秋九月、住持沙門法印堯秀」

かくして高尾山は隆盛期を迎え、九世源恵・十一世祐清の代には「盗賊耳付きの板」・「寺法七度(ななたび)返(がえ)りの刀」等の伝説が伝えられている。
醍醐山無量寿院松橋の法流を汲む高尾山薬王院は、第十三世賢俊の元禄十五年(一七〇二)学山智積院の教学論議の流れを汲んで、「智山(ちざん)常(じょう)法談(ほうだん)林(りん)」として多摩地方に於ける学法(がくほう)灌頂(かんぢょう)道場(どうじょう)という、謂わば仏教研修センターに定められたのである。
享保十四・十五年(一七二九~三〇)に掛けては、十六世秀憲によって飯縄権現堂が建立され、元文三年(一七三八)には飯縄大権現の出開帳(でかいちょう)が江戸の町で行われ、次いで宝暦三年(一七五三)第十七世秀興によって飯縄権現堂の拝殿、弊殿が再建され、更に安永年間(一七七二~八〇)書院、庫裏が建立されている。

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